”TE-27 スプリンタートレノの歴史”
1972年、トヨタはそれまでの標準型スプリンタークーペの高性能版モデルを、”トレノ”というサブネームをつけて発売します(同様に、カローラ版にはレビンを設定しました)。本来、上位クラスのセリカ1600GTの為に開発された強力な2T-G型1.6L DOHCエンジンを軽量コンパクトなスプリンターのボディに押し込んだのです。
この2T-Gユニットは、2000GTを除けば、トヨタ初の量産ツインカムエンジンであり、ソレックスキャブレターを採用していたことも特筆に値します。またレース参加を念頭に置いていたモデルのため、標準よりも太いタイヤを履く必要性があり、それを収めるオーバーフェンダーが標準装備となっています。これは当時、国産車では限られた高性能モデルにしか採用されなかった、憧れの装備でした。
そしてTE-27 スプリンタートレノは1974年にTE-47型へとフルモデルチェンジを受け、およそ2年におよぶモデルライフを終えることになるのです。
2代目(中期)TE61型(1977年 – 1978年)
トヨタ・スプリンタートレノ(2代目)
中期B-TE61(衝撃吸収バンパー装着車)型
1. 概要
2. 製造国 日本
販売期間 1977年1月 – 1978年
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2ドアファストバッククーペ
駆動方式 FR
パワートレイン
エンジン 2T-GEU型:1.6L 直4 DOHC
最高出力 110 ps/6,000 rpm
最大トルク 14.5 kgm/4,800 rpm
変速機 5速MT
サスペンション
前 マクファーソンストラット+コイルスプリング独立懸架
後 ]固定車軸+非対称半楕円リーフスプリング
車両寸法
ホイールベース 2,370 mm
全長 4,070 mm
全幅 1,615 mm
全高 1,310 mm
車両重量 950 kg (GT 955 kg)
電子制御燃料噴射装置(EFI)と酸化触媒を使うことで、2T-G型エンジンは2T-GEU型となって昭和51年排出ガス規制に適合し、1977年(昭和52年)1月、レビンとともに復活した。このマイナーチェンジではカローラにクーペが、スプリンターにはハードトップが追加され、それぞれ同様の車種体系となった。この時レビンはハードトップからクーペにボディ形状が変更されたため、TE27以来の同一ボディを使用することとなった。ただし、レビンのフロントまわりはリフトバックのものが流用されており、外観は全く新しいものとなった。なお、トレノと同時にスプリンターのリフトバックにも2T-GEU型エンジンが搭載され、「1600 GT」を名乗った。型式はトレノと同一のTE61である。
このモデルの販売終了前月までの新車登録台数の累計はスプリンターと合算して53万9644台。1977年、「スプリンター」シリーズがマイナーチェンジされたのと同時に、1975年末に排ガス対策のため生産が中止されていたDOHCエンジン搭載の「スプリンター トレノGT」の再販売が始まった。外観や室内はほぼ先代のまま、搭載エンジンが、先代のソレックスタイプのツインキャブレータ式から電子制御式燃料噴射装置と酸化触媒方式により、エンジン性能を維持しながら「排気ガス規制」に適合していた。
1977年1月、EFI(電子制御燃料噴射)と酸化触媒により2T-G型エンジンが昭和51年排出ガス規制に適合。それぞれ2代目の中期型としてスプリンタートレノTE61型、カローラレビンTE51型は復活を果たします。中期型ではマイナーチェンジにより、スプリンタートレノにはハードトップ、カローラレビンにはクーペが追加され、車種のラインナップが統一されました。
昭和は遠くなりにけり…だが、昭和生まれの国産スポーティカーは、日本だけでなく世界的にもブームとなっている。このレビン/トレノGTは、排出ガス規制の荒波に揉まれて、1975年11月に惜しまれつつ姿を消してゆく。だが、それから14カ月後にレビン/トレノの名を冠したFRライトウエイトスポーツが復活する。
1977年1月、トヨタはカローラ/スプリンターのマイナーチェンジを行ったが、この時に再びカタログに加えられたのである。
このマイナーチェンジを機に、レビンにはスプリンター トレノをベースにしたクーペボディが与えられ、従来のHTは廃止された。これは1976年1月に登場したカローラLB(リフトバック)のフロントマスクを、スプリンタークーペのボディに組み合わせたものだ。
また、ベーシック仕様とGTの2モデル構成となり、カローラLBにもスポーツワゴンのカローラLB1600GT(スプリンターも同様)が設定された。
1977年1月、約2年間市場から姿を消していたトレノはEFIを装着して110ps/14.5kgmを発生する2T-GEUを搭載し、TE61型トレノとなり51年規制をクリアして復活した。
搭載されたエンジンは51年規制をクリアするため燃料供給方式を電子制御燃料噴射のEFIにした2T-GEU型DOHCだ。排出ガス規制対策を施しながら、かつての2T-GR型(2T-G型のレギュラー仕様)並みの性能を実現している。
最高出力は110ps/6000rpm、最大トルクは14.5kgm/4800rpmを発生し、0→400m加速も16.5秒を可能にした。これは当時の2Lモデルを上回る実力だ。
排出ガス規制とオイルショックによる影響で、走る楽しみが乏しかった時期、当時の若者に夢を与えてくれたのが、EFIで復活したカローラ レビン&スプリンター トレノだったと言っていいだろう。
別にトヨタ車の宣伝をするつもりで書いているわけではなく、前回に続いて夏が来れば思い出す~シリーズの余韻となっています。当時は二枚目俳優の『近藤正臣さん』(前髪がトレードマークの俳優)がテレビコマーシャルをやっていて決め台詞が『君は誰と乗る⁈』でした。大学2年生になった頃で1970年代後半にもなりますと大学生も結構バイトなどでお金をためて自家用車を乗り回して通学する時代になっていました。私が卒業を控えて就活をしていた時に企業からよく聞かれたのは『車持っていますか?』という言葉でしたが、1つ年下の家内が大学生の時代の言葉は『どんな車種の車に乗っていますか?』だったそうで、恐ろしさを感じました。そもそも学生の身分で車を所持すること事態がどう自動車業界を席巻していたのですね。当時トヨタ自動車は『ブラックセリカ』。知る人ぞしるとぃう 旧車のなかでも人気がある『トヨタセリカLB』。しかもこのモデルは、1977年に累計100万台突破を記念して385台限定で発売された貴重な限定車『BLACK LIMITED EDITION』。“ブラックセリカ”の愛称でも親しまれ、ボディにはシリアルナンバーが刻まれている。全国販売数量限定車にもかかわらずそのうちの2台が私の通っていた大学の駐車場に止まっていたのにはビックリ!一台は二けたの番号でもう一台はシリアルナンバー275が刻印されていて、今でもしっかりと記憶に残っています。いきなり車の話ばかりですが、当時高校時代からお付き合いしていた彼女がいまして一度も同じクラスにはなったことがないのですが、『授業とトイレ以外はいつも一緒にいる』と言われるほどの全校での名物カップルでした。卒業後私は大学へ進学して彼女は就職をしたのですが付き合いは続いていましたが、大学2年生の夏(忘れもしない1977年7月23日土曜日の午後)に一方的に別れを切り出されて幕は降ろされました。この年の4月に彼女の勤める部署に新卒の男性が入社してきたのですが、よりによって私の大学の先輩。自称『家が裕福だったので5年間も大学へ行っていた⁈』とのことで彼が発売されたばかりの表題にも書きました白の『スプリンタートレノ』を乗り回しており、彼女の勤務している企業は自家用車持ち込み可能だったので(当時は社有車ではなくそのような企業が多くありましたね)帰りは同僚の女性と一緒にほとんど毎日駅まで?送ってもらっていたようで最後のセリフが『片思いの人ができた!』でした。どんな時代でもそばにいたほうが勝ちだな!と思いました。なんせこちらはクラブ活動に熱中していてジャージ姿で電車に乗って通学。自家用車などもってのほかというよりは、親が心配症で絶対許可を出してくれなかったこともあり時代の波に乗り遅れた悲惨な学生時代を送るスタートの日となってしまいました。その日を境に私の頭の中には『1R・2S・3C』という物欲だけが支配する考え方が定着しました。今でも付き合いのある親友(高校時代からの付き合のある女性)に言われた当時のセリフは『女性の流す涙の後には、新たな幸せが待っている!』という喜傷口に思い切り塩を塗りつける非情の言葉。しかし現実は受け入れなければならない中で自分の部屋(1R)・スキーとコンポネントステレオ(2S)・部屋にはカラーテレビとクーラー。そしてステイタスの象徴である自家用車(3C)。頭文字をとっての『1R・2S・3C』。笑いたければ笑え。それでもこれが俺の生きる道!とそれだけが支えとなって学生時代を過ごしてきた苦い思い出。最終的に自家用車を所有したのは卒業した時にゼミの友人がトヨタ自動車に就職して1号車を私が。2号車を本人が購入するということでカリーナハードトップ1600CCを購入。念願の『1R・2S・3C』がすべてそろった瞬間でした。
しがない男の青春の夏の一コマでした。最後までお読みいただきまして感謝いたします。
